富蔵から仁吉へ 
火曜日, 9月 22, 2009, 08:40 PM
 「シルバーウィーク」という聞きなれない名前の連休を利用して、都留重人先生の書かれた「科学的ヒューマニズムを求めて」と題する論集を読むことができた。93歳で亡くなられた都留先生が、86歳の時に出版された本だけれども、その鬼気迫る迫力に満ちた文章には誠に圧倒的な感銘を受けた。1947年に第一回の「経済白書」をほとんど一人で執筆されてから約50年、老経済学者から見たバブル崩壊後の世の中の動きは、誠にご自身の理想からはほど遠く、歯がゆいものであったように思われる。

 そんな中に、東京オリンピックのころに都留先生がオーストラリアで行った講演の内容を次のように引用していたのが特に印象に残った。それは、先生の人生哲学を明瞭に示しながら、日本の将来のあるべき姿について論じたものだということだった。今、まさに政権の交代が起こり、鳩山総理大臣が「友愛」の旗印を掲げ、日本の改革を目指して船出をしようとしている。そのことと符合しそうな以下の講演内容だが、都留先生が御存命なれば、この変革の始まりを見てどのような感慨をもたれるのだろうかと想像するのだった。

  『私は、日本が採り得る選択肢の性格を例示するために、日本の古い寓話を使った。それは、力兵衛・富蔵・仁吉という三人の兄弟についての寓話である。最初のうちは長兄の力兵衛が彼の腕力にものを言わせて家族内の支配権を握っていた。「力は正義なり」が原則だったのだ。しかし、年が経つにつれて、力兵衛の腕力にも衰えがみられるようになり、おかげで以前のようには彼は権力をふるえなくなった。その頃になると次兄の富蔵は、大きな蔵をいくつか建てるくらいに蓄財に成功し、今や彼が家族内で一番大きな発言権を持つようになっていった。つまり、第一人者としての基準が「力」から「富」へ移行したのである。


 ところが或る日のこと、その村に火事が発生し、その火事で富蔵の所有していた蔵が全部焼けてしまい、一夜にして富蔵は無一文状態になった。しかも火事に続いてむらには疫病が発生したのである。ところが末弟の仁吉は、かねてから医術の勉強をしていたので、その疫病に対する専門的な処置をただちにとることが出来、数多くの村民の命を救うことができた。今日、その村へ行くと、仁吉の銅像が村役場の前に建っているという。「仁」が「力」と「富」に勝ったのである。
 

 この寓話は、人間社会における権威や影響力が何を主軸とするかについての歴史的素描であるといってよい。一つのコミュニケーションの中では、右のような「力兵衛から富蔵へ」、「富蔵から仁吉へ」という進歩がまがりなりにもみられるが、国際社会での権威の基準もまた、移っていくであろうことを確信している。日本は、「力」の基準で判断される「一流国」の一つではなく、そうありえないし、またそうあってはならない。日本は、「富」の基準で判断される「一流国」の一つになりうるかもしれないが、今のところなってはいない。(注) 私は、日本が「仁」の基準で判断される「一流国」の一つになることが出来ればと念願している。この世界には「仁吉」の時代が必ず来るだろう。なぜなら、もしも「力兵衛」や「富蔵」の基準がさらに助長されるようなことになるなら、この地球は人類の栖としての適性を失うのではないかという疑念を、私はひそかに抱いているからである。』

 (注)1998年に出版されたこの本の中で都留先生は「いまや日本が一流の経済国であることは、一般に合意されているところである」と修正している。

福沢諭吉翁訓 
日曜日, 8月 16, 2009, 09:41 PM
 8月10日(月曜日)に岐阜にあるお取引先の工場長にお会いしました。その際に、今のような不況の時にこそ、「企業は人なり」といわれるように、社員の一人ひとりが力を発揮することが肝要。そのためには、社員教育などを通じて社員のレベルアップをし、気持ちを一つにして頑張ることが、この際会社にとって一番大切だという点で意見の一致をみました。

 すると、その場の応接室の壁に掛けてあった、「福沢諭吉翁訓」という額に自然と目が移りましたが、「企業は人が大切、人でもつ」という考え方にぴったりの訓示だと思いましたので、みなさん、もうよく御存じなのかもしれませんが、味わってよく読ませて頂いたものですから、ここに改めて書き記しておくことにします。百数十年も前に書かれたものとは思えぬ現代的な感覚で心に響くものがあります。

一、世の中で一番楽しく立派なことは、
  一生涯を貫く仕事を持つことである。

一、世の中で一番みじめなことは、
  教養のないことである。

一、世の中で一番さびしいことは、
  仕事のないことである。

一、世の中で一番みにくいことは、
  他人の生活をうらやむことである。

一、世の中で一番貴いことは、
  人の為に奉仕して、決して恩にきせないことである。

一、世の中で一番美しいことは、
  総てのものに愛情を持つことである。

一、世の中で一番悲しいことは、
  ウソをつくことである。


藤井由幸

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気になる他人の運転 
土曜日, 7月 25, 2009, 11:54 AM
自分が車を運転していると、最近とくに運転をしている人のマナーの悪さが気にかかる。先週、大阪に向かう途中の奈良県香芝市にあるサービスエリアに立ち寄ったときのこと。ほぼぎっしりと詰まった駐車場の中を駐車スペースを探してゆっくり走っていると、なんと、小型のバンが、3台分の駐車スペースを使って、だらりと横に伸びた形で止めている。運転手はというと、中でシートを倒して寝ているようだ。そのスペースがトイレに一番近い場所だものだから、私の後に続く車も次々と近づいてきて、何とかその場所に止められないものかと徐行しては、あきらめて遠くの駐車スペースを探しにゆく。

 そう言えば、運転中に対向車線を走ってくる車の運転手を観察すると、携帯電話で話をしている人をよく見かけたが、最近は、携帯電話の画面をちらちらと見ながら運転している人をしばしば見かける。たぶん、運転しながらメールを打ったり、読んだりしているのだろう。これはちょっと怖い。対面通行の道路を走行している時に、実際、対向車線から車がふらふらとはみ出しそうになってきて、急ブレーキをかけたり、クラクションを鳴らしたりしたことが、少なくとも三度ある。一歩間違えば大事故につながりかねない危険な行為ではないか。

 ただ、他人のこうした行為に無性に腹が立ってしまうというのは、年をとったせいかもしれないと思うようになってきた。若いころは、自分もそうだから、他人の迷惑行為もそう気にはならなかったのに、今は違うのはおかしい。「中年」の時期をもうすぐに終えようとする年代に入った私としては、他人の行為にもう少し寛容に、「きっと、何か事情があって、そういうことをしているのだろう、他人の都合というものにもっと思いを寄せるべきだ」と考えるように、つとめて自分を戒めているところである。みなさんは、どうお思いでしょうか?

藤井由幸


ホーキング博士と地球環境 
火曜日, 7月 14, 2009, 06:49 PM
 文芸春秋8月号で、石原慎太郎東京都知事の書いた「日米安保は破棄できる」と題した時評のエッセイを読んだ。この人の時代観というものには共感する部分も多いし、文章もさすがに文筆家だけあって「筆の力」というものがあってとても好きだ。政治家として惜しむらくは、経済についての理解が今ひとつである点だ。先の都議会議員選挙でも批判された「新銀行東京」への取り組みなどがこの人の行政手腕に汚点を残すことになってしまったのは、残念としか言いようがない。

 そんなことを考えながら読み進むと、地球環境問題に関連して、プラックホールや宇宙論で有名な理論物理学者のスティーブン・ホーキング博士のことが話に出てきた。大きな感動を覚えたので、引用してみる。

     『二十年ほど前に、筋委縮性側索硬化症という難病に冒された、ブラックホールの発見者でもあるイギリスの物理学者、ホーキング博士の来日講演を聞いたことがあります。聴衆の一人が、「この宇宙に地球ほどの文明をもった星がいくつくらいあるのでしょうか」と質問したら、即座に「二百万ぐらいあるでしょう」と彼は答えた。別の聴衆が、「その中には地球より進んだ文明をもつ星も当然あるはずなのに、我々が実際に宇宙人や宇宙船を目にすることがないのはなぜなのか」と尋ねたら、これまた言下に「地球くらいの文明をもつと自然の循環が狂ってきて、加速度的に不安定になる。そういう惑星は宇宙時間では瞬間的に滅びてしまうからだ」との答えが返ってきた。宇宙時間での瞬間とは地球時間で百年程度を指すとのことだったが、本人が明日をも知れぬ重病に冒されているだけにその予言的な発言はとても印象的だった。』

 宇宙の無常の摂理をわきまえた人からの、なんと当たり前のような、それでいて重みのある言葉であることか。果たして、私たち地球人の英知はこの「宇宙の摂理」を越えることができるのだろうか。それにしても、やれ解散だ、いや麻生おろしだ、などと叫んでいる人たちの、ケツの穴の小さきことよ!ホーキング博士には及ばずとも、少しは「宇宙時間」的なスケールで物事を考えてみてくれよ。

藤井由幸

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藤沢秀行囲碁学校 
月曜日, 7月 13, 2009, 12:43 AM
 先週木曜日の「クローズアップ現代」を見て、囲碁の藤沢秀行さんが5月に亡くなっていたということを知った。高校生時代に父から手ほどきを受けて打ったのが私の囲碁との出会いだったけれど、確か、藤沢さんの本を買って学生時代に囲碁の勉強に熱中したはずだと思って書棚を調べてみると、あった、あった。 「藤沢秀行囲碁学校」全6巻のうちの、第2巻『小目の布石』と第3巻『碁のきめどころ』があって、1973年2月1日という本の購入日まで下手な字で記してある。大学2年生の終わりころということになる。

 このころは、帰省するたびに父と囲碁の手合わせをして、最初は正目の石を置かせてもらっていたのが、メキメキと腕をあげて、やっと互先で打てるようになっていたので、何としても父に黒石を持たせたい、ということで必死に勉強したのだと思う。その材料が藤沢先生の本だったというわけだ。父から譲り受けた負けず嫌いの性格のせいか、せめて囲碁だけでもオヤジに勝てるようになりたい、という強い気持ちで、学業などもそっちのけで、一時期囲碁に夢中になっていたような気がする。余談だが、こういう私の性格はどうやら私の二人の息子たちにも受け継がれているらしく、二人とも負けん気が強く、良くも悪くも一つのことに凝る性分である。

 私は就職後も碁仇を作っては勉強し、碁仇がいなくなるとやめてしまうということの繰り返しで、上達のペースは遅かったけれど、ようやく初段くらいの腕が身につくようになった。 そこで、故郷の三重県に戻ると、ある人の紹介で羽根泰正さん(当時は九段)の指導碁を受ける囲碁クラブに入会させてもらって、囲碁を楽しんだ。この間、のちに本因坊となる息子の羽根直樹さん(当時はまだ高校生だがプロ四段の腕前)の指導碁を受けることができた。その直樹さんもまた、藤沢道場に通っていたということを聞いた。不思議な縁である。

 藤沢さんが、亡くなられる直前に「強烈なる努力」という書を、病に冒されて逝く直前とはとても思えないような力強い筆致で揮ごうされた、というエピソードが紹介されていた。才能ある若い棋士を中国・韓国からの留学生も含めて分け隔てなく弟子入りさせ、指導に当たってきた藤沢さんならではの「辞世の書」であるような気がする。心からご冥福をお祈りしたい。

藤井由幸  合掌



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