カマス理論を巡って 
火曜日, 4月 17, 2007, 05:45 AM - 2007年04月
名古屋の信用交換所が発行している「信用情報」と言うほぼ隔日発行の情報誌の表紙に、「レーダー」というコラムがあって、そのウイットに富む小文を読むのをいつも楽しみにしている。二人で交代で執筆しているという話を伺ったことがあるが、経営に携わる私のようなものにとっては、朝日の「天声人語」よりよっぽど気が利いていて、ためになると感心している。

その「レーダー」に、『カマス理論』(注*)と題する一文が掲載されていた。大変興味深い話だったので、過日の幹部社員との会議でその話を披露した。おおよそ、次のような内容であったと思う。

 『カマスは非常に攻撃性の強い魚で、近くにいる小魚を襲って食べる習性がある。同じ水槽に、カマスと小魚を入れておくと、カマスはすぐに攻撃を始めるので小魚はすぐにいなくなってしまう。ところが、カマスの攻撃を防ごうと、水槽を透明のアクリル板で仕切っておくと、カマスは何度攻撃をしかけてもアクリル板に跳ね返されてしまうので、やがて攻撃するのをあきらめてしまう。そうなると、今度は、アクリル板をはずして仕切りをなくしても、あきらめることに慣れたカマスは小魚を攻撃しなくなってしまう、ということである。これは、人に飼いならされたゾウについてもいえることで、小ゾウのときに太い足かせから逃げられなかった体験が、簡単に引きちぎれるはずの細い縄からも逃げようとしない大人のゾウを作ることになる。』

この話を幹部社員に披露して、私は、「みなさんは、小魚を襲うことを忘れたカマスや、足かせをはずそうとしないゾウになってはいけない。向う傷を恐れない自由な発想で、仕事に取り組んでほしい」と今一歩の努力を求めた。私はこの話が気に入っていたのだけれど、あとで幹部の一人が私にそっと耳打ちしてくれた。

「社長自身が、アクリルの仕切り板やゾウの足かせになっていないか、気をつけてくださいよ」
私は、本当にはっとする思いで、「一本、やられた」と感じた。そうか、私自身が、独りよがりになっていないか、常に自分を戒めていないと、社員たちをとんでもない方向に引っ張っていってしまうことになる。中小企業のオヤジというのは、それでなくても独断専行しがちだ。私は、それを諌めてくれる幹部がいることを本当に有難いし、仕合せなことだと思う。

ただ、こう付け加えるのを忘れなかった。
「このカマスの話には続きがある。小魚を襲わなくなったカマスのいる水槽に、新鮮なカマスを加えると、当然の事ながら、新しいカマスは猛然と小魚を襲い始める。それを見た古いカマスも本能を取り戻したかのように、一緒になって、再び小魚を襲い始めるというのだ。あなたも私も新しい発想で仕事ができなくなってしまったら、新しい血を入れるほかないかもしれないね。」

(*)出典:「信用情報」第8029号、2007年4月2日(株)信用交換所名古屋本社発行


震度5強の地震 
月曜日, 4月 16, 2007, 08:30 AM - 2007年04月
きのうのお昼に三重県亀山市を震源とする最大震度5強の大きな揺れを感じる地震がありましたが、皆さん、けがはありませんでしたか?四日市市内の我が家でも、「ドーン、というたて揺れの後に、けっこう長い時間横揺れが続きました。うちでの最大の被害は、本棚の上に飾ってあった「ロンドン・ブリッジ」のモザイクの飾り物が地震の揺れで倒れて、バラバラになって床に落ちたことくらいですけど。

その後すぐに会社に走って、異常がないかチェックしました。休日出勤で作業をしていたIさんとNさんが、
「ものすごい揺れやったけど、機械はちゃんとまわっとるよ」
と言うので安心しましたが、念のために工場の中をくまなく点検しました。もちろん、停電したわけでもないし、異常は何もありませんでした。床に立っていた化繊糸巻き取り用のの紙管が、倒れずにそのまま立っていたので、「あんなに大きく揺れたのに」と不思議に思うくらいでした。

また、もう少し震源に近い楠工場のほうへは管理職のYさんにお願いして、異常がないか点検のために行ってもらいました。すぐに「異常なし」の報告が帰ってきて、大変安心しました。機械や電気関係はもちろん、高く積み上げた資材なども、倒れることなく無事でした。

NHKが「のど自慢」の放送を中断して地震情報を流したせいか、会社には、取引先などから数件ほどの電話やメールによる照会があり、対応に追われました。この間、携帯電話は少しつながりにくくなっていたようです。その後、連絡の取れなかったK工場長が、自主的に楠工場と本社工場を巡回して、電気関係などを点検してくれていたことが分かりました。さすがです。

今回の地震では、全く被害もなくその意味ではよかったのですが、今後の「東南海地震」に備えて色々な訓練などをしておく必要があるなと思いました。「天災は忘れたころにやってくる」とはよく言ったもので、先人の知恵を教訓にしたいと思います。


春はあけぼの 
月曜日, 4月 9, 2007, 10:09 PM - 2007年04月
暖冬の今年は、よっぽど早く花見が楽しめるのかと思っていたら、結局は例年と変わ
らぬ4月の入学式シーズンに桜が満開となった。その満開の先週末に、母を車の助手席に乗せて、家内と三人で小雨模様の四日市市内の桜の名所を車内から見物するツアーに出かけた。認知症の母は、眠るでもなく、目を瞠るでもなく、無表情で外の桜をただ黙ってながめていた。そのとき私が無遠慮に大きなおならをもらすと、母はさもうれしそうに、
「まあっ」
と言って、口を手で押さえて笑ったではないか。続いて、
「お父さんは、もうっ」
と言う。私のことを父と間違えているに違いない。そういえば、父もよく無遠慮にところかまわずおならをもらしていたものだ。老母の久しぶりに意味のある言葉を聞き,精気のよみがえった横顔を見ていると、おならもまんざら悪いものではないなと思う。広い三滝通りに覆いかぶさるように咲き誇る満開の淡いピンクの花びらが風に揺れて、私たち親子のおなら談義に相槌を打ってくれているかのようだった。
桜は、色の淡いソメイヨシノがいい。でしゃばりすぎず、世間の片隅で、家内や施設に世話になりながらそっと生きる母のようだ。色が濃くては興ざめだ。
桜は、あまり長く咲かずにさっと散るのがいい。世の無常を思い出させてくれる。生きとし生けるものには必ずいつかは死が訪れる。だからこそ、生かしていただいている間は、精一杯生きようと私は思う。母を見ていると余計にそう思う。家内にもそう話している。母には、また来年も満開の桜を見て微笑んでほしいものだと、心から願っている。


学童保育所 
土曜日, 3月 24, 2007, 10:45 AM - 2007年03月
社員のKさんが、
「タイルカーペットを少し分けてほしい」
というので、
「社内販売は、特別に1枚○○円にしておきます」
と応じたら、
「実は、地区の子供たちを放課後に預かる学童保育所をボランティアで立ち上げて、ようやくできかかっているところなので、お金がないからできたら寄付してください」
という。Kさん自身も3人の元気な男の子を持つ若いママさんで、子育てには苦労をしていることを知っているので、普段から、会社としても何かと便宜を図っているつもりだった。ただ、給料以外の面で具体的にどうしてやれば子育てがやりやすくなるのか、なかなか分からずにいたところだ。私は、
「そういうことであれば、むしろ、喜んで寄付させていただきたい」
といって、早速、120枚ほどのタイルカーペットを、施設を運営する代表の方に取りに来ていただいた。

この代表者というのが、本社近くの旧東海道沿いにあったスーパーHの若旦那のSさん。わざわざ、後で改めて御礼に来られた。
「地域での子育て支援の取り組みに、地元の企業が出来ることを協力させていただくのは当然のことだ。あなたの方が、大変立派な活動をしておられるのだから、これから是非頑張ってください。私もあなたのおじいさんに小さいころ可愛がってもらった。1枚5円のコロッケを、おなかが減ってそうな顔をすると、5円しかなくても2枚出してくれたのを今でも覚えている。子供っていうのは、地域の人たちのそういう小さな愛情で支えられて、ようやく立派に育つんやないかと思う。」
といったら、
「良い理解者を得た」
といたく感激してくれた。

このSさんは、近くにコンビニや大手スーパーが出来たあおりを受けて自分の経営する店を締めざるを得なくなった後、大学に入りなおして教員免許を取り、今は鈴鹿の小学校の教員をしているということで、またまた、その頑張りに感動してしまった。人間っていうのは、気持ちさえあれば、すごいパワーを発揮するんだなあ、と感心することしきりだ。

新しい学童保育所は、4月1日に開所式を迎えるそうですが、こうした施設がYさんたちのような、強い意識を持った地域の人たちに支えられて、子供たちやその家族のみなさんのために、立派に運営されていくことを願っています。それにしても、行政はこうした地域の取り組みに、積極的に関与してくれているんだろうか?



山手中学校同窓会 
木曜日, 3月 22, 2007, 06:34 AM - 2007年03月
先週の日曜日は、卒業40年を迎えた四日市市立山手中学校の同窓会でした。皆、いいおじさん、おばさんになっていましたが、やっぱり、女性の方が若々しくもあり、元気もいいようでした。密かに恋焦がれていた幼なじみのKさんと久しぶりの再会を果たせて大いに話が盛り上がったのは良かったのですが、後で自宅に電話を戴いたときに私が不在で、家内と長々と話をしたようで、家内から「あの人とはどういう関係?」と追求されたのには参りました。

ただ、商売をしている社長たちの話を聴くと、ちっとも景気がいいとはいえない。やれ首切りだ、転業だなどと、苦しい本音が漏れてきました。「景気がいい」というのは、一体どこの国の話かなと思ってしまいました。

とはいうものの、私が声楽をかじっているというのを聞きつけた80歳になる老音楽教師I先生が、自分がピアノを弾くからどうしても私に、「荒城の月」を歌えというので、舞台に立って独唱してしまいましたけれど、他の人にはいい迷惑だったんじゃないでしょうかねえ・・・。実は、このI先生が中学校の音楽の時間に、いかにベートーベンの「第九合唱」が素晴らしいかを教えてくれたんです。『その初演のときには、ベートーベン自身が指揮を取ったのですが、合唱団は第一楽章からずっと立ちっぱなしで、第4楽章の出番のときには倒れる団員も出たということでした。でも、合唱が終わったときには、演奏会場は、割れんばかりの拍手喝采だったけれども、耳が不自由になっていたベートーベンはその音が聞こえず、オーケストラの団員に促されて客席を振り向いて、ようやくその歓声に気づいたのだよ』というようなことを聞いたのです。『そのお話をずっと覚えていて、40年近く経ってからようやく、いつかは挑戦してみたいと思い続けていた「第九合唱」をはじめたのですよ』とI先生にお話したら、本当に感激してくれました。

一人、大幅に遅刻して、月曜日に着いたという男がいます。ニューヨークから、雪のために飛行機が飛ばず、一日遅れで参加したのはNくんです。Nくんは、名前の一部をもじって「ガキさん」と呼ばれていましたが、そのあだ名の通り、「ガキ大将」で、気性の荒い暴れん坊でした。ただ、人に迷惑を掛けるような悪さはしませんでした。まあ、勉強の方は、本人も「全然でけへんだ」といっている通りでした。僕は、自分で言うのもなんですが成績はよかったのですが、不思議と「ガキさん」とは気が合って、校庭の隅のほうで話し込んだりしたものでした。お互いに、自分にないものを持っている相手に何か惹かれるものがあったのかもしれません。

その後の「ガキさん」の消息は全く知らなかったのですが、彼は32年前、23歳のときに単身ニューヨークに渡り、調理などの修行を積み、今やかの地で5つの日本食レストランを経営する大富豪です。日本のテレビや雑誌にも何度も採り上げられていて、ニューヨークの日本人社会では知らない人はいない「レストラン伊勢」のオーナー・シェフという出世振りです。今回は、東京への出店を検討しているので、その打ち合わせを兼ねて帰省したということでした。「今は、昔と違ってメチャメチャ頭を使ってるぞ」と元気に言っていました。

学校というのは、これだから面白い。何も、学業成績がいいことがすべてではありません。学校は、色々な能力を秘めている子供たちが大きく羽ばたくゆりかごですから、いじめっ子も、いじめられっ子も、明るい子も、暗い子も、どんな子でも大事に育つようにしなきゃいけないのだと思います。ひとりひとりの子供は本当に大きな才能を秘めているんですから。・・・え、藤井撚糸はどうなんかな?人間性が豊かになるような社員教育をやっているかな?自問自答の日々が続きます。



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